魏志倭人伝の読み方

大前提1:外国に関する情報なので,そもそも誤解が多い。明の時代の明智光秀に関する記事もそうで,大筋は違わないが固有名詞に誤りがある。

大前提2:字は写し間違うもの

大前提3:戦争の続いた三国志の時代なので,地理情報についてはわざと改変させた可能性がある

目次

私の見解

A.日本のことについて書かれているのは間違いない。

B.中国人は九州北部までしか行ってないし,女王にも会っていないし,畿内のことなんてまったく想定していない。したがって,中国人は九州付近を想定していることになる。

C.だからといって,当時の畿内の勢力が存在したことを否定するものではない。

D.女王は,日本のどこかにいて,複数の国を束ねる役割を果たした。しかし,それがどの程度の規模の国だったのかわからないし,女王を戴く国が複数あった可能性を否定できない。

このもやっとしたものが結論である。これはおそらく日本書紀の編纂時点から変わっておらず,日本書紀の中で結論を出すことを避けている。日本書紀では「中国史書に記された倭の女王」の候補者として二人の人物が暗示されている。それは「神功皇后=(畿内勢力の女王)」と「山門郡の熊襲の女王=(九州勢力の女王)」である。

1300年前に分からないものが,今わかる訳がないだろう。これ以上深追いすることは無駄である。

「邪馬台国の全解決」より

中国の史書がなぜわかりにくいか,明快な結論を出している。

前提:中国の歴史書には,「春秋」の伝統を引き継ぐ独特の書き方がある

ルール1:厳格な書法が確立されており,書法を外れた文章がある場合には,必ず何らかの理由がある。

ルール2:矛盾のある二つの文章の間には,必ず何らかの理由がある

ルール3:その理由とは,「敬意を示す」「立場を示す」「善悪を示す」といった,筆者の立場に基づく価値判断である。

ルール4:矛盾のある文章は,当時の中国の常識的教養や,書物の他の記述を合わせることで,読み取れるものである。

要点:現代の価値観では,文章に矛盾が無いように書くのが当たり前。しかし当時の中国の価値観では,歴史書において直接的に表現するのは醜いことであり,危険なことであった。だから意図的に矛盾のある文章を書き,他の記述と合わせて婉曲的に真意を表現する書法があった。その考え方を前提として,解読しなければならない。

魏志倭人伝は地理的記述にあまりにも矛盾が多い。それは,韓伝でもそうであるが,言外に表現したい意図があまりにも多かったからである。

魏志は魏の直後の晋の時代に書かれた。晋を建国した司馬氏は魏の将軍で,満州や朝鮮に兵を進めて功を挙げた人物であった。晋の建国に関わる地域だからこそ,わざわざ辺境の地の地理が記し,司馬氏の偉大さを示す意図を盛り込んでおく必要があった。逆に,不都合な事実は表現を変えることで直言しないようにした。

三国志の編纂当時,魏の歴史を書くにはあまりにも直近の時代でありすぎた。利害関係者が多くいて,呉との戦争も続いていた。したがって,他の史書以上に魏志には書けないことが多すぎた。地理的情報はその最たるものである。

そもそも魏志以外の歴史書に書かれた日本についても,日本国内の真実を記述することは全くできておらず,中国の知り得た一部の情報にすぎない。

中国史書の特徴は「先代史書を引き継ぎつつ,当世の正しい見方を盛り込む」ことであり,先代の記述を引用しつつも,引用箇所を限定したり文を足したりすることで,先代から現代までに変化した認識を書き加えているのである。

中国の高級官僚の書いた難解な文章を,現代人の感覚で読んだところで,理解できるはずがない。しかし,後代の史家が解釈した内容に関しては,一定程度の信頼がおけるだろう。

後漢書は魏志より後に書かれた。王朝の順と入れ替わっているが,直前の出来事を記した魏志よりも客観的で,錯綜する情報を整理している。

1.里程・陸行問題

書き換えるのをためらった説

・中国の1里は約434mという。漢代は約400m,清末期で576mであった。1尺が24,三国志において,韓伝と倭人伝以外は正確な距離で記されている。しかし魏志国淵伝に,「軍事書類は数字を十倍していた」という記述がある。三国で争っている時代,遠方の地理は軍事情報だから,資料にある人口・戸数・距離は十倍してあった。韓伝と倭人伝以外は正確な距離で記されているのは,換算したからである。ではなぜ韓伝と倭人伝は換算されなかったのか。それは,晋の皇帝の祖父が東方侵攻に携わったため,書き換えるのが恐れ多かったことと,成果を多めに示しておいても問題なかったからである。

・同時期の大月氏(中央アジア)は,長安から16000里,実際は4000~5000kmで,1里250~300m程度の値(57%)が使われている。三国志韓伝では韓の東西は4000里だが,正規の里程では1736kmになるところ,実際は半分以下の約250kmである。数値としては10で割った174kmの方が近い。実測値を400里で割ると1里625mで,144%に相当する。中国の内部ならともかく,旅先で正確な測量など期待できず,±50%程度の誤差は含んでいても仕方がない。ちなみにこの記述は「史記」に東西400里とあるのを引用した可能性が高い。中国の歴史所の,過去の記述を尊重する姿勢が垣間見える。

・魏志明帝紀において,司馬懿将軍は「洛陽から遼東まで4000里(868~1736km~2600km)」「行くに100日還るに100日」とある。洛陽から遼東までの実測は1300kmである。この里程は正式な里に近い。1日に9~17~26km程度の移動が想定されたのかもしれない。街道が整備された江戸時代の日本の旅人は1日40kmだというし,妥当なところだろう。陸行1日は40里,1月は1200里程度とみなせる。

・唐代の唐六典では,歩行は一日50里,黄河の水行は1日150里とあり,陸行の三倍速程度とみなせる。

三国志の訳を抜粋

韓伝より

韓は帯方郡の南にあって、東西は海である。南は倭と国境を接する。面積はおよそ4000里(86km~174km~260km)✕4000里。馬韓・辰韓・弁韓に分かれ,辰韓は昔辰国だった。

倭人伝より

倭人は帯方郡の東南の海の中にある。昔は100国あって漢の時代に朝貢するものがいたが,今は30国しかない。郡から倭に至るには,海岸に沿って水行し,韓を経て南だったり東だったりに進み,その北岸クヤ韓国に「到」る7000里(152km~304km~456km)。始めて海を渡る1000里。対海国に至る。大官はヒコ,副をヒナモリという。縦横各400里(9km~17km~26km)。1000戸(100軒)あり。又南に海を渡ること1000里。カン海という。一大国に至る。官は同じくヒコ,副はヒナモリという。縦横300里。3000戸(300軒)あり。又海を渡ること1000里,マツロ国に至る。4000戸(400軒)あり。東南に陸を行くこと500里でイト国に到る。昔から王がいる。

倭の位置は会稽の東に当たる。

247年,帯方郡の新しい太守としてオウキが着任した。オウキはチョウセイらを派遣し,詔書と軍旗をナトメに与え,檄文で

ヒメコはそのために死に,大きく塚を作った。男の王を立てたが国中は従わなかった。改めて13歳のイヨを立てて王としたことで,国が安定した。チョウセイは檄(イヨの即位を祝う,あるいは国交の再開を請求するといった強い表現を伴う文章)を送った。(それを受けて)イヨは倭の大夫,率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣してセイの帰還を送迎し,貢物を送った。

※中国からのは使いはイト国までしか行っていないのである。

後漢書の訳抜粋

倭は韓の東南の海の中にある。100国ある。漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして以降,漢に使者が来るのは30国程度だ。各国に王と称する人がいて,治めている。その中で大倭王はヤマト国にいる。その国(ヤマト国は)から楽浪郡の境界まで12000里(521km)あり,その国の(ヤマト国の)西北の境界にあるクヤ韓国から楽浪郡境界までは7000里(304km)ある。(クヤ韓国からヤマト国までは5000里(217km)ということになる。)会稽の東にあって,海南島とも近い。

※「韓の東南の海の中」に対応する形でクヤ韓国は西北岸に変更されている。女王国=ヤマト国と読み替えて認識している。

※100国から30国に減った理由を朝鮮討伐によるものと暗に示しているの。魏志では各国のリーダーを官・副と呼んでいたが,それは実は皆王と称していたことが明らかになっている。

※島であるため大陸の影響が小さく,海流の影響で同緯度の大陸よりも温暖湿潤な日本は,沖縄や台湾などと習俗に近いものがあった。

57年,倭のナ国の使者大夫(名前ではなく大臣の意味)が光武帝に朝貢して,金印を与えた。ナ国は倭の南端である。107年,倭国王帥升(名前ではなく豪族の長程度の意味)は奴隷を朝貢した170年頃倭国では大乱が起こった。ヒメコはシャーマンで,(諸侯によって)倭国の王として立てられた。王宮にいて,会える人は少なく,一人の男だけがヒメコの言葉を伝える。女王国の東に海を渡って1000里(43km,ただ,伝聞なので正規の里である可能性もある)行くとクナ国があり,倭人だが女王に属していない。(本州のことを指す。)女王国の南に4000里(170km)行くと小人の国がある。(渡海していないとみなすと南九州である。)小人の国から東南に船で一年行くと裸国と黒歯国がある。使者が通ずるのはここが限界だ。

※ナ国を倭の南端としている。

※後漢の時代の話を抜粋したため,魏と倭の間のやり取りは記載されていない。

会稽の海の向こうに東テイ人がいて,20国に分かれている。さらに夷州とセン州がある。始皇帝は徐福を遣わしたが,徐福は蓬莱を見つけられず,その地に留まった。時々,人々は会稽の市にやって来る。会稽の人が海で遭難すると到達することがある。しかし,遠すぎて往来はない。

※古い話にそういう話はあるが,朝貢などの公式な訪問は一切ない。ただ,東テイ人も徐福が行った場所も倭のことだと思われる。

宋書より

いわゆる「倭の五王」が記されている。

隋書より

倭国は百済新羅の東南3000里にある。(遣隋使の効果か,地理情報が修正されている。)

魏志にいう邪馬台のことである。昔は「楽浪郡の境界まで12000里,会稽の東にあって,海南島に近い」(かつてはそう思われていたが,情報に誤りがあったと認めている。)

旧唐書より

倭国

倭国は昔の倭の奴国である。648年,新羅の使者に託けて上奏文を届けた。

日本国

日本は倭の別種である。717年,朝臣真人が貢物を持ってきた。

※倭の「別種」という表現には,後漢書で邪馬台に従わなかったクナ国などを想定したと思われる。660年に唐新羅連合軍によって百済が滅亡し,662年に白村江戦争が発生。668年に新羅によって高句麗が滅ぼされた。日本は大化の改新など中央集権化が進んだ時期であった。

新唐書より

日本は昔の倭の奴国である。長安から14000里(),新羅の東南の海中にある。王の性はアメで,初代はアメノミナカヌシ(古事記の最初の神。日本書紀では異説扱いの神。)と言い,ヒコナギサまで32代,筑紫城に居た。ヒコナギサの子

※古事記の系図

アメノミナカヌシ→独神4柱→神代7代→アマテラス→アメノオシホミミ→ニニギ→ヒコホホデミ→ウガヤフキアエズ→神武

現存する書物とは別の書物を参照したことが伺える。

※650年~670年の唐訪問の記録は,旧唐書に無い記述である。この記述により,別種と思われていた倭と日本がつながるのである。

宋史

元史

明史より

日本は昔の倭の奴国である。670年頃,日本に改めた。

※記述の多くは倭寇に関することである。

参考書メモ

魏史の見解→当時の書物の「誇大表現」をそのまま記載
・勢力が遠方に広がることを示すべく「10倍の里程」
・呉を牽制するべく,「会稽の東」ということにした

書き方が変わるところで,意味が変わる
直線状→放射状→総称

隠された真実
・水行は「本当の距離は1/10」を暗示

後漢書の見解
晋書の見解
・女王は奴国にいる
・奴国が一番南だ
・邪馬台国は総称だ
唐書の見解
・現在の大和王権は邪馬台国と同一だ

晋書の矛盾

奴国が2つ
しかも極南海と追記

奴国より先、方位の記事が無いので、極南海とした。

通交30国、全部で7万戸と読んでいる
帯方郡から女王まで12000里と読んでいる

邪馬台国=倭国=30国連合

女王国∈邪馬台国

以北は記載できる
→最南端が女王国である=奴国

後漢の頃に金印を与えた国だから、金印を与えた

1万2千とは、里程+島半周を足した値
だから南が東に逸れた

十倍にして記載されていた
→勝手に修正できなかった

魏志の韓国は4000里四方
唐代の韓国は400里四方と書く

実測値は約700里に相当

陸行は40~50里 水行は120~150里 = 1200里
→真実の距離を暗示している

1里434m

「会稽の東」にある という書物(三国志時代に呉をけん制する情報)

突然出てくるとま国は邪馬台国と書き方が同じ
つまり,数か国の総称

距離は陸行無く,邪馬台国の倍の遠方

くな国は南にある 東に別の国がある
→狗奴国は東にある

大和政権はかつての邪馬台国だと断定している

東遷した。

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