「山月記」という作品がある。
高校の国語で読んだ懐かしい作品で、今でも時々読み返す。
虎になった男、李徴という登場人物がいる。高校時代、彼と自分自身を重ね合わせ、自分はかような悲劇的な最期を迎えるまいと強く思っていた。
今、やはり自分は李徴なのではないかと思った。
今月から始めた会社員。同期には若い人がたくさんいる。
はじめは、今まで経験したことの無いそうした環境のことを、実に興味深いと思っていた。
しかし、観察者から行為の主体に移行したことを認識したとき、本当は自尊心を激しく傷つけていたことと、それをごまかし続けていたことに気づいた。
この半年、同窓会で懐かしい顔に会うことが多かった。
確かに楽しかったのだけど、かつての同輩が仕事や家庭生活に勤しむ姿を見るに、彼らの背中が遠ざかっていくような気がした。
今日は神楽を観た。その中で、面をかぶって踊るものがあった。
面をペルソナと捉えるならば、我々は皆、何かしらの面をかぶって日々を暮らしている。
面をかぶったまま、役になりきり、面をかぶっていることを忘れてしまうとすれば、それは案外幸せなのではないかと思う。
李徴は、虎の仮面に心の底からなりきることで救われたのかもしれない。
しかし、物語の中と違い、我々実世界を生きる者は、虎に変身することはできない。
酒や薬物で一時的に狂うことはあるかもしれない。小説「人間失格」の登場人物は、虎になりたがっていたが、なりきれなかった。
代償を払いながら生きていかなければならなくなり、ついに精神病院に閉じ込められた。
僕たちは、仮面を外した素顔と共に生きていくしかないんだ。